お米の単位
1,300年以上も前に定められた、「合」、「升」、「斗」、「石)」
百万石の大名というように、昔はお米の収穫量(石高)が領地の広さや経済力を示していました。実はこの「石」は容積を示す単位。現在のようにkg(キログラム)やt(トン)が使われる以前は、お米の量を重さではなく容積で表していたのです。
「石」(コク)より小さな単位には「斗」(ト)、「升」(ショウ)、「合」(ゴウ)などがあり、一斗樽、一升瓶、一合徳利などは、いまでもなじみの深い言葉です。ではこうした容積の単位はどのようにして定められたのでしょうか。
そのルーツは中国にあります。今から約
2,000年も前の「漢」の時代には、すでに体系的に整えられていたというから驚きです。
日本の歴史に登場する最も古い記録は、1,300年近く前(701年)に制定された大法律令。
「量、十合為升、三升為大升一升、十升為斗、十斗為石」と記されていてこの頃すでに10合で1升、10升で1斗、10斗で1石とする単位が定められていたことがわかります。これは当時の中国の王朝、「唐」にならって定められたものといわれています。
こうして定められた量制も時とともに変化し、10合が1升という決まりが同じでも、1升の量自体が地域によって異なるようになりました。当時の税金(年貢)はお米ですから、量る枡(マス)が大きければそれだけ多くの年貢が徴収できます。そうした権力者側の都合で、1升の基準となる枡の大きさが次第に変わっていってしまったのでしょう。その後、米の流通が盛んになるにつれ商人たちの間で枡が自主的に統一され始め、戦国時代の末にはいまの8合前後の大きさの枡が使われていました。
枡の大きさが全国的に統一されたのは江戸時代初期のことでした。寛文9年(1,669年)に統一令が出され、1升枡は方4寸9分(1寸は
3.0センチ、分は 0.3センチ)、深さ2寸7分、容積
64.827立方分(1.804リットル)と定めたのです。江戸幕府は江戸と京都に『枡座(マスザ)』(いまでいう公社のようなもの)を置き、枡の制作と販売、そして違法な枡の取り締まりを行わせました。それから300年以上の間、1升枡の表す容積はまったく変わらずに現在に至っています。
また米俵については、古くは平安時代に5斗(75kg)で1俵とするという記録が残っています。全国的に統一されたのは明治時代の末で、4斗(60kg)で1俵に。現在は重さに換算して1俵=60kgに統一されています。